META NAME="ROBOTS" CONTENT="NOINDEX,NOFOLLOW,NOARCHIVE" 脱「テレビ」宣言・大衆演劇への誘い 幕間閑話・十八世中村勘三郎の「死因」
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2019-04-19

幕間閑話・十八世中村勘三郎の「死因」

私の独断と偏見によれば、十八世中村勘三郎の「死因」は、「勘三郎」という名跡を襲名したことにある。彼は、あくまで「勘九郎」でいなければならなかった。父・十七世中村勘三郎は、「勘三郎」という名に値する、独自の芸風を持っていたが、子・十八世中村勘三郎は、それを踏襲・かつ乗り超えることができただろうか。残念ながら、「否」である。昭和40年代末期、十七世中村勘三郎は、息子の勘九郎、娘の波乃久里子を連れて、東京千住の寿劇場にやってきた。公演は、大衆演劇の「山口正夫劇団」。座長の山口正夫と、弟子の一人が親友で、今日は「友情出演」するとのこと、勘三郎は、その弟子の舞台を観る(勉強する)ために、わざわざ下町場末の芝居小屋まで足を運んだのである。息子や娘に「芝居の神髄」を学ばせたい、という気持ちがあったのかもしれない。たまたま、私もその場に居合わせたが、座長・山口正夫と弟子の「舞姿」を見比べて、驚嘆した。一方は大衆演劇界屈指の人気者、他方は無名の歌舞伎役者、しかし、その「風格」には、文字通り「雲泥の差」が生じていたのである。その弟子が誰であったかは思い出せないが、その上品な景色は、未だに私の脳裏に焼き付いている。当時の勘九郎は十代後半、その光景を糧にして、以後の演劇活動を展開したに違いない。さて、中村勘九郎の舞台姿は、子役時代から輝いていた。まだ6・7歳の頃でっあったろうか・・・、「白波五人男・勢揃いの場」で、どん尻に控えた「南郷力丸」を、(今の団十郎、幸四郎ら、先輩連中に混じって)見事に演じた姿が忘れられない。また、日活映画「戦争と人間・第一部」(監督・山本薩夫)では、貧しい労働者に共感する、伍代財閥の次男・俊介役を懸命に演じていた。父親役・滝沢修と「五分で渡り合い」、階級社会に疑問を抱く純粋な14,5歳の姿が、鮮やかに描出されていた、と私は思う。だがしかし・・・、子役時代のスターが、成人後も輝き続けるとは限らない。中村勘九郎の芸風を一言で言えば「器用」、どんな役でも「達者」にこなすが、その先「余韻」が感じられない。要するに、「アッケラカンのパッパラパー」で終わる「役どころ」が「はまり役」といえよう。例えば、(世話物の)「法界坊」、例えば「蝙蝠安」、例えば「髪結新三」あたりまでだろうか。「勧進帳」の弁慶・富樫、「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助 、「平家女護島」の俊寛となると「荷が重い」。NHK大河ドラマ「元禄繚乱」(1999年)の大石内蔵助もひどかった。大竹しのぶ、安達祐実を相手に「地」のままの「スッピン芸」としか、私には思えなかった。しかし、それはまだ、勘九郎時代のこと、また「テレビ芸」の余興として、大目に見ることもできよう。ネット情報では〈舞台・ドラマの「忠臣蔵」で、今まで大石主税・大石内蔵助・浅野内匠頭を演じており「これで吉良上野介を演じたら、忠臣蔵グランドスラムになりますね(笑)」と、吉良役のオファーが来るのを楽しみにしていた。〉などと書かれているが、それが中村勘九郎の「芸風」なのである。しかるに、2005年、彼は(その芸風のまま)「十八世中村勘三郎」を襲名した。それが、何を意味するか、彼は気づいていただろうか。父を超えようとして、父の芸風を消してしまったのである。父・十七世中村勘三郎の芸風は「軽妙・洒脱」、加えて「侠気」もあった。「哀愁」もあった。まだまだ勘九郎(ごとき)が襲える名跡ではあるまいに・・・。 かくて「勘九郎」も「勘三郎」も、永遠にこの世から消え去ったという次第、まことに残念な話である。(2012.12.5)
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